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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アグネス・チャンAgnes Miling Kaneko Chan、中国名:陳美齡(チャン・メイリン)、日本名:金子 陳美齢(かねこ チャンメイリン)、1955年8月20日 - )は、イギリス領香港(当時)生まれの歌手、大学教授、エッセイスト、小説家、日本ユニセフ協会大使。カトリック信者で、洗礼名が「アグネス」、苗字が「陳」(チャン)。教育学博士の学位を持つ。血液型AB型。

  • 中学生の時に始めたボランティア活動で、ギターを手に募金を集めた。これが噂になり、香港のフォーク歌手のオムニバスアルバムへのレコーディングの話が出た。
  • 1971年にこの『Second Folk Album』と題するオムニバスアルバムで、姉のアイリーン・チャンと共にジョニ・ミッチェル作の「The Circle Game」をカバーした結果、評判が良く、シングル化もされて大ヒットした。この時期、アイリーンは香港の映画界で人気を得、日本でもテレビドラマ出演などを果たしたが、日本の芸能界では妹アグネスほどの成功は収めていない。
  • 1972年には姉のアイリーン・チャンらと張徹監督の映画『年輕人』『反叛』に出演、映画が配給されたマレーシアタイなどの東南アジアでも人気がでるようになった。
  • 香港のテレビ番組で知り合った平尾昌晃によって日本に紹介され、1972年11月25日ワーナーパイオニア(現ワーナーミュージック・ジャパン)より「ひなげしの花」で日本デビュー。当時は大活躍の影で、楽屋には殆ど中華丼ばかりが用意され、「中国系の子だから中華丼で間違い無いでしょう」というスタッフの配慮による辛い思いを番組で語っていた。
  • 1973年「草原の輝き」で日本レコード大賞新人賞を受賞するなど、高く澄んだ歌声と、愛くるしいルックス、たどたどしい日本語が受けて、人気アイドルとなった。
  • 1973年の「小さな恋の物語」が大ヒットし、オリコンチャート1位を獲得。だが、前作の「草原の輝き」の印象が強烈すぎるせいか、この曲は世間一般での印象が薄く、テレビの懐メロ番組でも歌われることは少ない。
  • 1974年、「草原の輝き」が春の選抜高等学校野球大会入場行進曲に選ばれる。また、ブロマイドの売上成績第1位に輝く。この頃、コンサートのバックバンドとして鈴木慶一ムーンライダーズを起用、司会は植田芳暁上智大学国際学部に入学したが、父の勧めもあって、1976年に芸能活動を休んでカナダトロント大学へ留学し社会児童心理学科に入ったが、父は翌1977年に他界し、卒業する姿を見せることができなかった。1976年のさよならコンサートの前からホットケーキがコンサートに参加。
  • 1978年にトロント大学を卒業後、8月に日本に戻り、吉田拓郎作曲の歌「アゲイン」で芸能活動を再開。復帰コンサートツアーのひとつとして、中国人歌手としては初となる日本武道館でのコンサートも行った。レコード会社は次の「やさしさ知らず」からSMSに移籍。
  • 1979年香港で、初の広東語アルバム『雨中康乃馨』を発売。日本ではゴダイゴとのコラボレーションアルバム『AGNES IN WONDERLAND 不思議の国のアグネス』と『ABC Agnes』を発売。
  • 1984年国際青年年記念平和論文に応募し、特別賞を受賞。フジテレビなるほど!ザ・ワールド』の主題曲「愛のハーモニー」から徳間ジャパンにレコード会社を移籍。
  • 1985年、芸能活動のみでなく、ボランティア活動を再開するようになった。4月、北京首都体育館で5万4千人を動員して宋慶齢基金会チャリティーコンサートを開催、中国で記念のベスト盤カセットテープが販売された。
  • 同年、日本テレビの『24時間テレビ』のために、旱魃による食料不足状態にあったエチオピアを取材。単に悲惨な情況を伝えるだけでなく、「ロンドン橋落ちた」の替え歌アムハラ語で歌って現地の子供と交流する様子も伝えられた。
  • 1986年、元マネージャーの金子力(現所属事務所社長)と結婚し、カナダで長男を出産した。翌年子連れでの仕事を再開したことについて、林真理子が論評『いい加減にしてよ、アグネス』で批判した。これを端初にアグネス論争が起き、「アグネス」が新語・流行語大賞大衆賞を受賞するほどの社会的論争となり、日本の働く母親、女性の立場を再考させるきっかけとなった。
  • 1988年飛鳥涼(現ASKA)作詞・作曲の歌「LIFE」でポニーキャニオンに移籍。
  • 1989年には米国スタンフォード大学教育学部博士課程に留学、現地で次男を出産。東京大学とスタンフォード大学の卒業生の10年後の姿を調査し、日米両国の男女間格差の実態をまとめ、1994年教育学博士号(Ph.D.)を取得した。
  • 1992年前後、フジテレビ系たけし・逸見の平成教育委員会」に生徒役として数回ゲスト出演。国語の問題に関しては「中国語ではこう言いますよ。」等の珍答で、北野武先生や逸見政孝に「国語の授業って言っても、ここは日本なんだから、日本の国語で答えて下さいよ。(要旨)」等の「突っ込み」を入れられ、番組を盛り上げた。
  • 1996年、香港にて三男を出産。その後もエッセイスト、共栄大学客員教授として日本全国で講演を続けた。
  • 1998年には初代財団法人日本ユニセフ協会大使(黒柳徹子らが務めるユニセフ国際連合児童基金)の親善大使ではない)に就任した。就任後、これまでに、大使としてタイスーダン東ティモールフィリピンイラクモルドバレソトインドを公式訪問し、現地で目にした子どもたちの窮状を伝えるほか、『わたしが愛する日本』などの著作で、平和を目指す提言を行っている。
  • 2000年には日本クラウンに移籍し、ロングヘアをやめてイメージチェンジして、「この身がちぎれるほどに」を歌うなど、ムード歌謡の分野で歌手活動に力を入れるようになった。8月に台場小香港に香港雑貨店「CHAN'S」を出店(現在はネット通販のみ)。
  • 2002年には小説『パーフェクト・カップル』、『銃弾の指輪』を出版し、作家活動も開始した。翌年には月刊『すばる』に短編小説の連載もしている。
  • 2005年にリリースした、初のセルフカバー曲『草原の輝き2005』はアサヒ飲料十六茶コマーシャルに使われた。9月に発売された『しあわせの花』は、手話を取り入れた振り付けで歌った。10月には広島大学の主宰する「ペスタロッチー教育賞」の14回目を受賞。
  • 2006年2月、ジャッキー・チェンとのデュエット曲を含む英語盤CD『 Forget Yourself』をアメリカで発売した。12月には日本デビュー35周年を記念するコンサートの第一弾が行われた。年末に香港で唾液腺腫瘍の摘出手術を受けたが、無事成功し、早くも年明けから活動を再開した。
  • 2007年には平和をテーマにした自作曲など3作のシングルとアルバム、それに著作の発売が予定され、日本各地で日本デビュー35周年のコンサートツアーが予定されているほか、9月には北京人民大会堂でも公演の予定がある。
  • 平和をテーマにした曲の第一弾は、自らピアノを弾きながら、山本伸一の詞にメロディーを付けた『そこには幸せがもう生まれているから』。カップリング曲の『みんな地球に生きるひと』は歌詞も自作である。最新曲である、第二弾も、山本伸一作詞の『ピースフルワールド』。

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