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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

竹内 まりやたけうち まりや、1955年3月20日-)は、島根県出雲市大社町出身のシンガーソングライター。自称「シンガーソング専業主婦」。本名、山下 まりや(旧姓:竹内)。山下達郎の妻で、一女の母である。デビュー当時はアイドル歌手だった。血液型はA型。

出雲大社近くの老舗旅館「竹野屋」主人でもある竹内・大社町(当時)元町長の娘として生まれる。

島根県立大社高等学校在学中に、アメリカ・イリノイ州に1年間留学。この留学は、AFS(高校生の交換留学団体)の交換留学制度で行ったものであるが、この時のAFSの同期に、国際ジャーナリストの小西克哉がいた。

慶應義塾大学文学部に進学(将来的には通訳をやりたかったそうだ)。在学中に音楽活動(杉真理の所属する「ピープル」旧リアル・マッコイズ)を始める、このサークルで竹内は鈴木慶一の従妹の宮悦子、現在は料亭で女将業の中山ゆき子らとともにバックコーラスグループもやっていた。このサークルは第8回ポプコン関東甲信越大会('74.9.7中野サンプラザ)に「踊りに行こう」という曲で参加しているが、同大会には別グループとして佐野元春(バックレイン元春セクション)、庄野真代、桐ヶ谷仁(フェードイン。現在は松任谷正隆氏の経営する音楽学校講師)も参加していた。1978年、シングル『戻っておいで・私の時間』、アルバム『BEGINNING』でデビュー。英文科に進んだが、厳しいことで有名な唐須教光のゼミと音楽活動の両立ができなくなり中退。のち、1979年のシングル『SEPTEMBER』、1980年のシングル『不思議なピーチパイ』などがヒットする。デビュー当初は、松本隆などが提供するアイドルソング的な歌を歌わされていたが、これに飽き足らず間もなく自ら作詞・作曲を手がけるようになった。

この頃アレンジャーとして彼女の前に登場したのが、後に公私共に良きパートナーとなる山下達郎である(もっとも、デビュー以前からまりやはシュガーベイブや達郎のライブを見に行っていたと語っており、特に自らのデビューライブ直前に見た達郎のライブには大きなインパクトを受けたという)。

竹内まりやの結婚前の作品は、山下達郎をはじめ、加藤和彦、細野晴臣、告井延隆(センチメンタル・シティ・ロマンス)、大貫妙子、林哲司、伊藤銀次、杉真理、安部恭弘、浜田金吾(濱田金吾)といった錚々たる作家が提供し、作品の質は極めて高い。

1981年、アイドル的な活動を要求されることと自身の希望する活動とのギャップから一時休業を宣言、その後1982年に山下達郎と結婚。同時に専業作詞作曲家として活動を開始し、河合奈保子の『けんかをやめて』などのヒットを放つ。しかし、1982年に山下達郎が自身のレコード会社ALFA MOONを設立したことから「記念に一枚」のつもりで、1984年にシングル『もう一度』、そして全曲を彼女自身が作詞・作曲したアルバム『VARIETY』をリリース。ちなみにこのアルバムの構想段階では、以前のように外部作家を起用して制作する予定であったが、休業中に彼女が書きためたオリジナル曲のクオリティの高さに山下達郎が大いに驚き、結果、全曲を自作曲のアルバムとしてリリースすることとなった。

当時は歌手としては既に忘れられた存在でありながら最終的には30万枚以上の大ヒットになった。 その後は育児との両立が難しいこともあり、ライブ活動からは退いたものの、アレンジャー・プロデューサーを務める夫のサポートを受けながら、シンガーソングライターとして活動を続け、3年間のロングセールスを記録したアルバム『REQUEST』(1987年)や、シングル『駅』(1987年)、シングル『シングル・アゲイン』(1989年)、シングル『告白』(1990年)、シングル『家(うち)に帰ろう(マイ・スイート・ホーム)』(1992年)などのヒット作をリリース。1992年にはアルバム『QUIET LIFE』が発売と同時にミリオン・セラーとなり、1994年のベストアルバム『IMPRESSIONS』は売上300万枚を超える大ヒットを記録。

作詞・作曲家としては薬師丸ひろ子の『元気を出して』(1984年、のちに島谷ひとみも2003年に同曲を歌った)、広末涼子の『MajiでKoiする5秒前』(1997年)など、多くのヒット作を生んだ。

90年代初め、中国系の歌手・林羽萍(Lín Yŭpíng,英語名 Jessica)がアルバム『久別重逢』の中で『元気を出して』を『清醒之後』としてカバーしている。中国詞は「王中言」で、作曲者は本来「竹内まりや」とすべきところが「熊天龍」という全く違う名前になっている。

2000年7月、約18年ぶりの本格的なライブ(それ以前にも縁故のあるミュージシャンのライブのサプライズゲストに登場し数曲洋楽カヴァーを歌うことはあった)を東京・大阪で行う(ライブ・アルバム『SOUVENIR』収録)。その後もアルバム『BON APPETIT!』(2001年)、カヴァーアルバム『Longtime Favorites』(2003年)などをリリース。2004年には夫のシングル『忘れないで』の作詞を担当など、マイペースながらも着実に活動を続けている。子育てや夫・達郎の作品制作が一段落したことから2006年からリリースを積極的に行うようになり、2007年には6年ぶりにオリジナルアルバム『Denim』を発表。『Denim』はオリコンチャート1位入りを果たし、現在でも根強い人気を保っていることを証明した。

2006年8月27日放送の山下達郎のJACCS CARDサンデーソングブックによると、携帯電話の電話帳機能をうまく使いこなせないため、手持ちのアドレス帳を見ながら携帯電話から電話をかけているらしい。しかし、夫である山下達郎から「~のレストランを予約した」等とメールを受け取った際は返信することはできるらしい。

彼女の楽曲は、何気ない日常に焦点をあてた歌などが多いが、本人がやや自嘲気味に言っているように不倫を題材にした曲も多い(なお達郎の書いた『Impressions』収録の『マンハッタン・キス』の解説によれば、『本人はあくまでもアンチ不倫派であるとの事。』)。

シングル「チャンスの前髪」にはサザンオールスターズの原由子や松たか子がコーラスに出演している。

2000年に『TOKYO-FM&fm-osaka開局30周年記念イベント』が、日本武道館(7月11日・12日)と大阪城ホール(7月31日)にて開催され、cannaとSing Like Talkingと共に竹内本人も出演し、約18年振りに本格的なコンサートを開催した。公演は3番目のトリとして出演。約1時間半の公演時間で、14曲を熱唱した。山下達郎もバックメンバーとして参加し、最後には二人のデュエットも披露している。この模様は「SOUVENIR」としてアルバム化された。

尚、それまで竹内まりやがライブをやらなかった理由は、「子育てや家庭を優先するため、やらなかった」と明言しており、山下達郎による規制や遠慮ではなかった。以前インタビューで、「(山下)達郎が「ライブは、やるな」と言っているとか、「達郎に遠慮している」とか言われているけど、私がライブをやりたくなったら、達郎がなんと言おうと、私はやるって! 本当にやりたくないから、今はやらないだけ」と答えている。

夫山下達郎とともに、新譜のリリース時以外にはメディアへの露出度は低いが、毎年8月と12月に夫のラジオ番組『山下達郎のJACCS CARDサンデーソングブック』(JFN系列)へ出演。「夫婦放談(一部リスナーからは「夫婦漫談」と呼ばれている)」と称して、夫婦ならではの絶妙な間合いの喋りを披露し、好評を博している。

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