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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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加藤 紀子かとう のりこ、1973年1月30日 - )は、女優タレント歌手である。本名:若槻紀子(旧姓:加藤)。三重県鈴鹿市出身。身長164cm 足のサイズ24.5cm。血液型はB型。東京都立代々木高等学校夜間部卒業。所属事務所はアップフロントグループ。

  • 学校が鈴鹿サーキットの近くだったので、マラソン大会は鈴鹿サーキットのレーシングコースを走っていた。
  • 20歳まで父親と一緒にお風呂に入っていた(笑っていいとも!で証言)。その父は彼女が21歳の時逝去した。
  • 女優の常盤貴子は深夜ミニドラマ『シャンプータイム』で共演して以来の親友で、舞台公演やトーク番組出演などの際は互いにお花を送り合ったりしている。
  • 大谷允保とは実家が歩いてすぐ着くほど近い。
  • 高校時代、中居正広や木村拓哉(SMAP)と同級生だった。(1995年4月の「マジカル頭脳パワー!!スペシャル」や2007年8月15日のちちんぷいぷいにて発言)
  • 『桜っ子クラブ』の企画で淡谷のり子を訪問した際に、訪問したメンバーの中で唯一「歌手としての素質がある」と言われた。
  • 一時期、リサ・ステッグマイヤーに似ているといわれた時期があった。
  • 「ダウンタウンDX」で足の話になり、優香が23cmと答え、浜田に突っ込まれ恥ずかしそうに24.5cmと答えていたのが印象的。その時、当時レギュラーだった「笑っていいとも」でタモリと同じ足のサイズと答えていた。
  • 『マジカル頭脳パワー!!』に出演した時のエピソードで「頭に``う``の付く長い物」と出題された際、他の出演者が「うどん」と回答する中、一人だけ「うんこ」と叫び、所ジョージのいじりのネタにされた(近所の子供にも「うんこ加藤」と言われたと後に本人も語っている。)なお『マジカル頭脳パワー!!』は夜8時台の放送であったため、この件がきっかけとなり、その後は個人回答にて「うんこ」などの下品回答は即アウト、集団回答においても「食事中の方々、大変失礼しました(大変申し訳ございません)」とテロップが表示された。
  • おなじくマジカル頭脳パワー!!で「頭に``さ``の付く歴史上有名な人」と出題され、「サンフランシスコ・ザビエル」(フランシスコ・ザビエルのこと)と回答し、その後他のメンバーから「人名問題は紀ちゃん苦手だから」と言われた(San Francisco Xavierとはスペイン語で「聖フランシスコ・ザビエル」の意味)。その他、寄合を組合と回答するなど、他のメンバーには理解不能な回答も数多かった。
  • 頭に``ち``の付く箱」と出題された際、他の出演者が「貯金箱」と回答する中、一人だけ「ちくわの箱」と叫び、「ちくわの箱がある」と説明し、正解になったことがある。
  • 「マジカルシャウト」で「板東さんを『ギャフン』と言わせる」といい、スタッフの顔色をうかがって答えを探り出そうとしたが失敗し、加藤自身が「ギャフン」と言った。(この作戦を所ジョージが「全日本ギャフン大作戦」と命名)
  • かつてリリー・フランキーとの熱愛が、雑誌『フライデー』(2000年3月24日号)で報じられた。小説『東京タワー~オカンとボクと、時々、オトン~』(2005年・扶桑社)の作中に登場する「オカンと仲の良い彼女」とは加藤の事である。
  • 『ちちんぷいぷい』の企画で、携帯電話の写メを送るだけで自動的にアダ名を付けてくれるアダナモードを利用したところ、アダ名は「鼻毛伸ばし」となった。

    1991年、アイドルグループ「桜っ子クラブさくら組」の一員としてテレビ朝日の『桜っ子クラブ』に出演。『桜っ子クラブ』終了後の1994年後半から徐々にテレビやラジオ番組への露出が多くなる。1992年7月25日、シングル『今度私どこか連れていって下さいよ』(森高千里の同名曲のカバー)で歌手デビューを果たす。

    1995年からは、中断していた歌手活動を本格的に再開。以降、2005年までにアップフロントワークスからシングル9枚、アルバム4枚をリリースした。

    1999年からフランスへ語学留学したために休業していたが、1994年から1999年の最終回まで出演していた日本テレビ系クイズ番組『マジカル頭脳パワー!!』の復活スペシャル出演のため2001年末に途中帰国。留学を終え、2002年春に芸能界復帰。

    帰国後は、留学前のようなバラエティ番組への出演は減ったが、音楽知識をいかしラジオやインターネットに活動の場を置いている。

    最近は所属事務所を同じくするハロー!プロジェクト関連の仕事も多い。

    2005年12月27日、11歳年上のクリエイティブディレクター・若槻善雄との結婚を発表。2006年1月1日に入籍。2006年現在、関西ローカルのワイドショー『ちちんぷいぷい』(毎日放送)にレギュラー出演中(水曜日のみ)。司会を務める毎日放送アナウンサーの上泉雄一(2007年4月から『ちちんぷいぷい』を離れ、『せやねん!』を担当)からは「のりちゃん」と呼ばれている。

    • シャンプータイム(1993年、日本テレビ)
    • 東京大学物語(1994年、テレビ朝日)
    • 最高の恋人(1995年、テレビ朝日)
    • ガラスの靴(1997年、日本テレビ)
    • 凄絶!嫁姑戦争 羅刹の家(1998年、テレビ朝日)
    • 独身生活(1999年、TBS)
    • バーチャルガール(2000年、日本テレビ)第2話
    • 湘南瓦屋根物語(2002年、テレビ東京)
    • リトルホスピタル(2003年、テレビ東京)
      • 森田一義アワー笑っていいとも!(1994年10月-1998年3月、フジテレビ)
      • マジカル頭脳パワー!! (1994年11月-1999年9月、日本テレビ)
      • 大発見!恐怖の法則(1996年10月-1997年9月、朝日放送)
      • スーパーマリオスタジアム(1993年10月-1996年6月、テレビ東京)
      • 64マリオスタジアム(1996年7月-1998年3月、テレビ東京)
      • ハローランド(2002年4月-2003年3月、フジテレビ系)
      • セクシー女塾(2003年4月-9月、テレビ東京系)
      • っちゅ~ねん!(2005年4-毎日放送=大阪地区のみ)火曜レギュラー
      • ちちんぷいぷい(2006年- 毎日放送=大阪地区のみ)月曜→水曜レギュラー
      • ナイトinナイト・きになるオセロ(2006年ごろから 朝日放送=大阪地区のみ)準レギュラー
      • どっちの料理ショー(1998年、ゲスト)
      • ウンナンの炎のチャレンジャー(1997年、ゲスト)
セフレセックスフレンド
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

青木 さやか(あおき さやか、本名:青木 沙耶加(読み同じ)、1973年3月27日 - )は、日本のお笑いタレント(ピン芸人)、女優。愛知県尾張旭市出身(生まれは愛知県瀬戸市)。ワタナベエンターテインメント所属。身長165cm。体重54.6㎏。ウエスト70cm。血液型O型。既婚。

  • 両親共に小学校教諭という家庭環境で育つ(2006年3月現在、母親は小学校の校長)。愛知県立瀬戸高等学校を経て、名古屋学院大学外国語学部中国語学科卒業。就職活動で在名テレビ局のアナウンサー採用試験を受けるがいずれも不採用となる。
  • 大学卒業後はテレビタレントセンター(TTC・名古屋のタレント養成所)に入学。この時、タレントセンターで講師を務めていた狂言師和泉元彌から狂言の指導を受けたことがある。
  • その後、中京ローカルのフリーアナウンサーとして活動し、林寛子の付き人を経て、中京テレビの深夜番組『めざせ!総・楽・天』に出演。この時はお笑い志望ではなかったが、「面白いタレントになりたい」という自己PRをお笑い志望としてこの番組で紹介されたことがきっかけで、お笑いに転身する。
  • 名古屋では一時期、松田大輔(現:東京ダイナマイト)らと「温泉こんにゃくアクロバットショー」なる5人組のユニットを組んでいた。ユニット脱退後、しばらくフリーで活動していたが、ワタナベエンターテインメントのライブにゲスト出演した際、渡辺ミキ社長にスカウトされ、2003年1月より事務所を移籍して本格的に東京での活動を始め、現在に至る。
  • 駆け出し時代、『お願い!DJ!克也とのりちゃんはっぴぃウィークエンド』(ニッポン放送)で「イエローハットサウンドハイウェイベストヒットセレクション」の中継を担当していた。その縁で、BSデジタル本放送が開始された2000年12月から、BSフジで放送のニッポン放送制作の番組『LF+Rモーニング YOUNG LIVE JAPAN』『ヤングライブニッポンLF+RミュージックTV』に松田大輔と「温泉こんにゃく…」としてレギュラー出演した。
  • しばらくは鳴かず飛ばずの時期が続いたが、2003年秋頃からフジテレビ系の番組『笑う犬の太陽』『ネプリーグ』やテレビ朝日系の番組『Out Of Order』など、事務所の強力プッシュによってレギュラー番組が激増する。本人はこの頃のことを「ネプチューンのバーターで売れた」と語っている。
  • 同じ頃、『エンタの神様』(日本テレビ系)などのネタ番組でブレイク。現在は笑い専門だけでなく、女優業や司会業などもこなす。
  • 2004年8月10日に発売された『週刊ポスト』8月20日・27日号のグラビアでビキニ姿を披露し、賛否両論を巻き起こす。
  • 2004年10月12日放送のテレビ朝日の特番『ロンドンハーツ3時間スペシャル』で、当時の彼氏である「コージ」を公開。番組史上最高視聴率(平均22.1%、瞬間最高30.4%)獲得に貢献する。
  • テレビ番組『音楽戦士 MUSIC FIGHTER』の企画で、P'UNK~EN~CIEL(L'Arc~en~Cielの変名ユニット)に「P'UNK青木」としてキーボード・コーラス他で参加し、2004年12月25日『天嘉 - 参 DANGER III in 日本武道館』に出演する。また、2005年1月13日にリリースされたL'Arc~en~Cielのシングル「Killing Me」のカップリング曲『Round and Round 2005 feat. P'UNK青木』でCDデビュー。
  • 2005年1月1日朝にフジテレビが放送した新春お笑い番組で海原はるか・かなたと共演した際、海原かなたを真似て海原はるかの毛髪を吹き飛ばすはずが、なぜかおでこにキスをして海原はるかを喜ばせた(アドリブのギャグと思われる)。
  • フジテレビ系『めちゃ×2イケてるッ!』2005年4月9日放送分の芸能人抜き打ちテストでは5位だった。
  • 2005年4月13日に、写真集「Où Voyez-vous?」(タイトルは「どこ見てんのよ?」という意味のフランス語)を発売し、初版2万部が3日で完売した。なお、発売前日の4月12日にテレビ朝日の特番『ロンドンハーツスペシャル』でこの写真集撮影の一部始終が放送された。その後、増刷され7万5千部に。後に、事務所の後輩安倍麻美に「売れたのは、ロンハーのおかげでしょ」と言われたが、「あれはねぇ! ロンハーのおかげ!」と切り返し、否定しなかった。
  • 2005年7月23日~7月24日、フジテレビ系『FNS ALL STARS 25時間テレビ』の総合司会を笑福亭鶴瓶と共に務め、“フジテレビアナウンサー”の肩書きで出演。そして、フィナーレ恒例のフジテレビ新人アナウンサー披露ではこの年の本当の締めくくり役(提供読みの最後は田淵裕章アナウンサー)を担当。芸能人として初めての同コーナーの参加者となった。
  • 2007年7月28日~7月29日のフジテレビ系、FNS27時間テレビで、TEN竺ボウリングの東海テレビの代表者タレント知事として各局と対決、決勝で見事ストライクを決め優勝(決勝の対戦局はフジテレビとテレビ静岡。女性アナウンサー、アマチュアボウラーは1本もストライクを出していない。タレント知事対決でストライクを決めたのは青木1人だった)。支援金を手に入れたが、青木の話し合いの結果、一部の100万円を東海テレビ福祉文化事業団「愛の鈴」を通して新潟県中越沖地震被災者への義援金にすることにした。タレント知事として戦った新潟県出身の三田村邦彦も「ぜひ新潟に遊びに来てください」と感謝の言葉を述べた。残りの支援金900万円は、9月29日に名古屋城の本丸御殿の復元の為にと名古屋市に寄付された。
  • 2007年10月22日、出会って半年の31歳ダンサーと結婚することが発表された。
    • 芸人としての持ちネタは主に、バスガイド、保母、エレベーターガールなど様々な職業のコスプレで、皮肉たっぷりにブラックジョークを連発する一人コント。また、特技のピアノを使い、自作の歌を弾き語りするネタもある。名古屋時代は、アルトリコーダーを吹きながらシュールなことを言う漫談ネタもやっていた。
    • バラエティ番組では、慇懃キャラを軸にしつつ、目上目下にかかわらず相手に罵声を浴びせたり、女であることを過剰に意識してツッコミを誘ったりなど、状況に応じてリアクションを使い分ける。
    • 罵倒については、特に若手の局アナ相手で激しく炸裂するが、これはテレビ局のアナウンサー試験での挫折体験や、その後のフリーアナウンサー経験も影響しているものとされる。なお、滑舌のよさを売りの一つとするが、フリーアナウンサー経験もさることながら「トーク番組で絡んでもらうには、きちんとした滑舌でしゃべらなきゃ」と一念発起したことにもよるという。
    • 決めセリフは「どこ見てんのよ!!!!」(胸元や下半身を隠し、カメラや男性タレントを睨み付けながら怒鳴る)、「ふざけないでよ!!!!」(ノリツッコミ的に用いられる)、「にゃあ」、「にょろーん」(主にコントの落ちで脱力気味に発声される)など。
    • 2004年暮れ頃から2005年初めにかけ、『北斗の拳』『ろくでなしBLUES』『キン肉マン』など、1980年代後半に週刊少年ジャンプなどで連載された漫画に描かれるフレーズや動作を借用して、決めセリフ代わりにすることが多かった。
    • 中学生時代は髪がおかっぱで日焼けをして黒かったため、「ウォーズマン」というあだ名を付けられていた。大学時代は色白になったものの太ってしまい、「テリーマン」というあだ名に変わった。
    • 名古屋時代、『めざせ!総・楽・天』で共演していたキャイ~ンの天野ひろゆきから、ツッコミで初めてどつかれた時、収録終了後、どついたことに対し天野に抗議した。しかし、天野とは既に和解しているようで、同じ番組での共演もある。
    • 波田陽区の事務所の後輩(年齢は青木の方が上)としても知られているが、青木は「波田君」、波田は「青木さん」と実際の芸歴にはそぐわない呼び方をしていると言われる。また波田が青木を斬るネタ「お化粧2時間、ネタ3分」はシングル「ギター侍のうた」の最初にあり、波田のネタでは最もよく使われるギャグの1つである(このネタがTVで放送された直後、青木が激怒。食事を数回おごらせる条件で和解した)。
    • 長井秀和と仲が良く、休みの時は地元のファミリーレストランで愚痴を言い合っているほどである。また、友近とは携帯メールで恋愛相談をし合う仲という。
    • 趣味は麻雀・パチンコ。ブレイクする前は雀荘でアルバイトをしていた。その雀荘の客と交際していたことがある。
    • 視力が悪いため、プライベートではメガネを着用している。メガネをかけた様子はテレビで時々公開される。
    • かなりの高所恐怖症。高さ3~4mの歩道橋でも怖いという。だが、『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』でおしおきとしてスカイダイビングをさせられ、ロケでは終始おびえていた。また「世界絶叫グランプリ」で急降下する絶叫マシンに乗せられ、司会なのに初代グランプリを獲得したりもしている。
    • 同じく『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』の企画「アイドルハンター」では、特技の水泳でアイドルと対決を繰り広げる。ダブルヘッダー・1対3のハンディマッチが組まれる事もあったが、唯一水野裕子に黒星を喫した以外は全勝を果たしている。
    • 但し水泳以外のスポーツはかなり不得意なようで、Qさま!!や『ロンドンハーツ』で失態を見せる事も多い。
    • しばしばタモリから「女装したはなわ」と呼ばれている。
    • 東海地区のローカルタレント・相川真一は大学のサークルの後輩で、青木とは今でもメール交換をするなど仲が良い。日本テレビ系の『おしゃれカンケイ』に出演した際、相川が電話出演した。
    • 東京ダイナマイトと共演すると、メンバーの一人である松田大輔と「温泉こんにゃくアクロバットショウ」時代のネタを再現することが多い。これまでに『Goro's Bar』2005年3月17日放送分と、2005年の『FNS ALL STARS 25時間テレビ』内「真夏の爆笑ヒットパレード」コーナーで実現した。
    • 「芸風」の項でも触れている通り、アナウンサー(特に若手の同性)に対し挑発的なアクションをとることが多い。特に『愛のエプロン』MCの「しわアナ」こと武内絵美アナに対しては著しく、作った料理が「しわを出すほどまずい」という評価を下されると「絶対こいつ追放してやる!!!!!!」などとキレキャラを発揮する。武内も青木のことをよく思っておらず、結果として罵倒合戦になることもしばしば。2007年5月7日放送の『クイズプレゼンバラエティー Qさま!!』では、武内に対して「お前なんか死んでしまえ!」のような、冗談とはいえないような発言をした(2ちゃんねるではかなりの批判が書き込まれている)。しかし、武内アナらと司会を務める『史上最強のメガヒットカラオケBEST100 完璧に歌って1000万円!!』ではバトルは起こしていない。『笑っていいとも!』や『Goro's Bar』では、女子アナと共演していてもバトルを起こすことは稀であるが、相川梨絵に対し「お前、いいともクビにするぞ!」ときつい発言をしている。レギュラーになる前にテレフォンショッキングに出たときも、電話機を受け取る際に女子アナをにらみつけながら強引に奪い取るような印象の悪い態度をとっている。
    • 彼氏に女の影がいるかもしれないと言う心配をした時、寝言で彼の浮気相手を調べたところ、その相手はまじかる☆タルるートくんで「たるるーたるるー」と話していたと語った。
    • 2005年、『FNS ALL STARS 25時間テレビ』中、FNS系列局が地元の“トリビア”を競い合う「トリビアの温泉」コーナーで東海テレビが登場した時、東海テレビのアナウンサー入社試験を受けたことを明かした(不採用だった)。また、同番組のエンディング恒例となっている、フジテレビ新人アナウンサーの提供スポンサー読みで、新人アナ4人に混じって、史上唯一のアナウンサー以外のスポンサー読みを務めた。これは、人事異動免除お笑いフルマラソンを見事完走した山中秀樹アナたっての配慮と言う。ところがセリフは「以上の提供でお送りしました」のみだった。これは、スタッフが「芸能人に提供読みをさせたらミスする可能性が極めて大きいだろう」と判断したためであった。彼女のキャラから、本来ならばキレなければいけないものの、感極まって泣くという失態を演じてしまい、後日『笑っていいとも!』でタモリにダメ出しをされた。
    • 2005年9月、テレビ番組などで紹介された彼氏・コージが、父親の逝去を受けて母親の実家である石垣島に帰る。売れっ子で多忙な青木とは遠距離恋愛が困難ということになり、同年暮れ、この恋愛に終止符を打つ。
    • 写真集の売上を各所で自慢して芸人であることを忘れる様な発言をしていたが、『ネプリーグ』(フジテレビ)で石川亜沙美に「顔大きいですね~。シーマンそっくり」と言われ、『ロンドンハーツ』ではSHEILAにコンプレックスなどを出され、ボロボロ状態にされた。
    • 渋谷駅のモヤイ像が青木に似ていることから、女子高生などの間では像がある出口を「青木さやか口」と呼んでいる。
    • 地理が大の苦手。現在、主に東京を活動の中心にしているにもかかわらず、『Qさま!!』の「プレッシャーSTUDY」にて東京都の日本地図上での位置を当てるのにも不安げだった。
    • 同じ事務所のいつもここからの山田一成が住んでいたアパートに住んでいた時期があった。(通称「幸せの部屋」と呼ばれているらしい)。谷原章介が司会の『カミングダウト』にて判明。現在は別のマンションに引っ越している。
    • 注射が大の苦手。海外ロケにあたり予防注射を受けるよう言われたにもかかわらず、それをせずにロケに行って問題を起こしたことがある、と本人が語るほどである。『ロンドンハーツ』で健康診断を行ったところ、素で採血を嫌がり、終いには泣き出す始末だった。結局、共演者が青木を励ましながら採血した。
    • カメラで撮られることを極度に嫌う。
    • 仕事で上田晋也とキスをした事があるらしい。上田は嫌がっていたが、青木はまんざらでもなかったらしい
      • 深夜時代の『愛のエプロン3』で冷やし中華とバンバンジーが課題だった回で、青木の作った料理を食べたジャッジマン・勝俣州和に、冷やし中華に対し「いくら食べても卵と麺!」と、さらにバンバンジーに対しては、「辛いうんこ」と酷評された。その回ではエプロンガールズの最下位にランクされ、たまたま観光に来ていた青森のカップルにネームプレートを持ち帰らせることとなった。これは番組史上、最も低い評価である。なお、その次に出演した回では「海鮮かた焼きそば・エビワンタンスープ」を作り、ランク外ながらも順位を上げた。この時、青木のネームプレートを返却しに来た青森のカップルは、一緒に出演したインリン・オブ・ジョイトイのネームプレートを交換で持ち帰ることになり、次の週に番組が終了(ゴールデンタイムへの時間帯移動による仕切り直し)、その後に2週間総集編を放送したため、順位はそのままになった。
      • ゴールデン移動後は急激に腕を上げており、チーム対抗戦においてはキャプテンを務めるまでになっている。2005年12月21日のクリスマスSP、2006年1月4日の「TOKIO軍団vs愛エプ軍団」、4月12日の「石原軍団vs愛エプ軍団」ではいずれも高評価を受けていて、石原軍団のリーダー渡哲也と戦ったときは、95点と自己最高得点をマークした。レギュラーランキング戦で自己最高位を更新しつつあるが、7月5日放送分『愛エプ杯争奪SP』のような大一番で最後の詰めを誤る事もしばしばあり(また、番組のネタとして“引っ張られて”いる事もあってか)、特~上エプ、特エプ王手と、なかなか特エプを取らせてもらえない状態だった。最終的にランキングは126人中13位(特~上エプ)という高位置であった。元祖愛エプ四天王である。
      • 2006年10月11日放送分の愛エプカップ2007の出場権を賭けた予選では見事なカツ丼を作り、91点という得点を叩き出し、8人中1位で愛エプカップ2007への出場の切符を手にした。また、2006年11月8日放送分では、裏技などを使い、見事な和風ハンバーグを作り、秋野暢子や森公美子といった強豪を抑え、瀬川瑛子と並ぶ99点を叩き出し、優勝2冠を手にした。
      • 2007年5月30日放送分愛エプ料理グランプリ!日本料理界の権威が決める過去出演の1,130人の中から最優秀料理人ランキングでは、ベスト10の6位に見事輝いた。
      • 2007年6月6日放送分の和田アキ子がオーナーのお店の新メニューを賭けてのバトルでは、和田の足のサイズと同じくらいのトンカツを作り、和田をはじめとするジャッジマンからかなりの高評価を受け、100点という自己最高得点を叩き出した。
      • 2007年8月8日放送分の九州食いつくしSP後半戦!東国原知事に宮崎県の新郷土料理を提案する!では、 宮崎名産の冷や汁をアレンジ。通常用いるご飯に代えて中華麺を使うという、まさにアイディア満載の冷やし国原汁を完成させ絶賛を受ける。これが94点という点数を取り、見事優勝した。

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岡田 美里おかだ みり、1961年8月24日- )は、東京都港区出身のタレント、エッセイスト。E・H・エリックの次女,岡田真澄の姪。本名・柳沼美里(やぎぬま みり、旧姓・栗原、旧々姓・岡田)。

東京都世田谷区にある聖ドミニコ学園高等学校在学中から雑誌「ポパイ」やCMなどのモデルをつとめる。1984年、聖心女子大学文学部教育学科を卒業後は、F1を扱うスポーツ番組のキャスターを皮切りに本格的なタレント活動を開始。1989年、幼少の頃から知る15歳年上のタレント・堺正章と結婚、2女を設ける。夫と共にエイズ撲滅運動に専心する一方、1998年、ライフスタイルを提案するスクール「Atelier Millie Millie(アトリエミリーミリー)」を開講。タレント業の他に、パン教室の講師や、テーブルウエアをはじめとする生活用品のデザイナーとしても活躍し始め、多くのファッション誌、ミセス誌で取り上げられ、カリスマ主婦の地位を確立する。

2001年に堺と離婚。単独で開いた離婚会見で、夫の仕事上の成功を望まなかった心中を吐露、週に2~3回夫婦でゴルフをするのが理想だったことや、夫あてに送られてくる膨大な中元・歳暮などの贈答品の対応に追われてつらかったことを離婚理由に挙げるとともに、夫が何気なく机にハガキを投げやる物音だけでおびえてしまうPTSDに襲われていることを告白、それが幼少期に父親から受けた家庭内暴力に起因することについても触れた。この会見は、それまで心理学の専門用語だったPTSDという言葉を広く世間に知らしめるきっかけとなる一方で、離婚理由を非常識と批判する多数派と、彼女のライフスタイルを支持し、心情を擁護する少数派に分かれ、しばらくワイドショーの話題をさらうなどの社会現象にまで発展した。
その後、2003年にスポーツインストラクターの柳沼則夫と再婚、現在に至る。

2005年6月27日に関西テレビで放映された「快傑えみちゃんねる」に出演した際、「夫が女性から『ちょっと遊びません』と誘われた」、「興信所を使ったのか」などと発言。イニシャルと共に「あの大物姉妹」のナレーションが流れたため、人物が特定される。この当該タレントが「発言は真実ではない」とし、名誉毀損と計約1100万円の損害賠償を求めて東京地裁に訴訟。2006年7月28日、東京地裁は「社会的評価に影響を与えた」と認定、岡田に計約66万円の支払いを命じる判決を下した。

長女の栗原菊乃はミュージカル『アニー』に2回出演、次女の栗原小春も2001年当時の姉と同じ役を獲得、アニーに出演(2005年)。祖父は画家の岡田稔、叔父は俳優の岡田眞澄、従弟はその長男でラジオDJの岡田真善という芸能人一家。

セフレ人妻 不倫

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泉 ピン子いずみ ぴんこ、本名;武本 小夜、旧姓;江口、1947年9月11日 - )は、東京都中央区出身の女優。日本音楽高等学校中退。血液型はB型。

1966年、牧伸二に師事して歌謡漫談家としてデビュー(当時の芸名は「三門マリ子」)。しかし、売れっ子の師匠と違ってキャバレー回りが続いたという。ある日、街角でキャバレーの呼び込みに「うちで働かない?」と言われたが、「はばかりながら、こっちはもっといい商売やってんだよ!」と一蹴した。キャバレーの呼び込みは、「いけね。トルコ嬢に声かけちまった」と言ったという。その心意気は、やがて実を結ぶ。

1975年に日本テレビ系列「ウィークエンダー」の番組レポーターを担当したのを機に、改名し「泉ピン子」となる。この芸名は芸能人であることをずっと反対していた父親が『芸人にはピンからキリまであるのだから、志しの一番なピンの芸人になれ』と、彼女に話したことから。その後、女優業に転身する。歌謡曲の歌手としても1976年に『哀恋蝶』が40万枚のヒットを記録している。

女優としては1983年にNHKで放送された連続テレビドラマ「おしん」での母親役の演技力に評価が高まり、特に橋田寿賀子に高く評価され、本格的バイプレーヤーとして活躍するようになり、以降現在まで橋田ファミリーの旗頭的な存在である。長いセリフにも動じない安定した画面での存在感に定評があり、以降はドラマや映画に数多く出演する。

バラエティ番組では元コメディエンヌとして騒々しいほどの達者なトークで活躍。一方で人気ドラマ「渡る世間は鬼ばかり」では本来のキャラクターと相反する大人しい嫁の役で定評を得ている。

1997年、1人息子の長男が覚せい剤使用で逮捕され、謝罪記者会見では号泣しながら謝罪し、記者の質問に答えた。

2005年夏、テレビドラマ「美空ひばり物語」でひばりの母親役を演じるために16kgものダイエットに成功し話題を集めた。ただし、上記の体重の数値(65kgというのは、ダイエットを敢行する以前の体重であった)からみても、現在はリバウンドしているのではないかという意見も散見される。もっとも、「芸能人」のダイエットについて、短期間である程度の「成果」をあげながら、いつの間にかリバウンドしてしまっているという例はいくつか見られるところである。

バラエティ番組「愛のエプロン」に3度出場。2005年10月12日放送回では初登場にして特エプ獲得の衝撃デビュー、2005年11月23日放送回ではトップクラスの一角・杉本彩に僅差で勝利し、料理の実力を見せ付けている。そして2006年6月14日放送回では、「和・洋・中の三ジャンル」及び「全ての出場回」で特エプを獲得する、という前人未到の記録を達成した。

夫は消化器内科医の武本憲重でテレビ朝日の「最終警告!たけしの本当は怖い家庭の医学」(朝日放送制作)にゲスト医師として出演したり、TBSの泉主演の「女子刑務所東三号棟」の医療監修を行ったり 「橋田さん家に行こう」には夫婦でゲスト出演している。

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生稲 晃子(いくいな あきこ、1968年4月28日 - )は、日本の歌手女優。本名、佐山 晃子(さやま あきこ)。旧姓、生稲(いくいな)。

東京都小金井市出身。小金井フットボールクラブに所属し、全国大会優勝した時のメンバーである。

私立吉祥女子高等学校 → 恵泉女学園短期大学英文学科卒業。高校は芸能活動禁止であったが成績優秀であったため好成績を継続することを条件に芸能活動が特別に許可された。但し芸能活動をしているということで、成績優秀だったが大学入試の際に学校からの推薦が得られなかった(本来は兄の母校である早稲田大学を志望していたといわれる)。

1986年3月に開催された『タッチ』ヒロイン・浅倉南のイメージガールを選ぶ「ミス南コンテスト」に出場。落選したもののコンテストを共催していたホリプロの系列モデル事務所からスカウトされて芸能界入り。

ちなみに同月発売された『ing高校コース』(学研、『高1コース』をこの年に改名した。その後再度誌名を変更の後に廃刊)4月号の「ハイスクールライフ大特集/バイトしたい恋したい高校生したい!」に、高校生生活について語る先輩として写真入で出ていることから、『高校コース』の読者であったと思われる(同誌の編集時期から、芸能界繋がりによる登場とは考え難いため)。なお、このときは名字に「いくいね」と間違ったルビが振られたが、後に同誌がおニャン子クラブ関係で彼女を取り上げた際も特に訂正は入らなかった。

1986年6月におニャン子クラブの会員番号40番としてデビュー。10月、渡辺満里奈のデビュー曲『深呼吸して』で工藤静香と共に「withおニャン子クラブ」としてバックコーラスで参加。11月、おニャン子クラブの6枚目のシングル『恋はくえすちょん』で、フロント4人の中に入る。12月、ローソンのからあげクンのCMに単独で出演、自身の歌う『ハートに募金を』(アルバム『SIDE LINE』収録)が流れる。

1987年5月、工藤静香、斉藤満喜子と共に「うしろ髪ひかれ隊」のメンバーになり、アニメ『ハイスクール!奇面組』の主題歌『時の河を越えて』でユニットデビュー。9月のおニャン子クラブ解散後も、グループで活動する。

1988年4月をもって「うしろ髪ひかれ隊」の活動が休止となり、5月に『麦わらでダンス』(フジテレビ系放映アニメ『ついでにとんちんかん』主題歌)でソロデビュー。7月にはフジテレビ系ドラマ『あそびにおいでヨ!』で連続ドラマに初出演。以後ドラマやバラエティ番組など多数出演。

2001年4月、デビュー以来所属していたプロダクション尾木より独立。女優としてCBCテレビ制作のドラマ『キッズ・ウォー』シリーズに長く主演した他、テレビ朝日の人気時代劇『暴れん坊将軍』にはVIIシリーズ~VIIIシリーズ第1話は魚屋兼岡引おぶん、VIIIシリーズ第2話~800回スペシャルは江戸町火消しめ組の頭長次郎(山本譲二)の妻おぶんとして出演していた。

最近は古典芸能に造詣を持ち、NHKの『日本の古典芸能』『芸能花舞台』の司会も務めた。(毎回和服姿で番組を進行。下記の理由により降板した)2003年にCM制作会社プロデューサーと結婚。2005年10月、妊娠していることが判明、「思っているよりつわりがひどかった」とのこと。2006年3月に第一子(長女)を出産。2006年からは芸能事務所・株式会社ポートレーブに所属。近年は子育てをしながらテレビ出演、また、夫婦で鉄板焼き屋を経営している。

  • アイドル時代には、「いくいな」にちなんで「1917」という表記がさまざまな形で使われることがあった。1917年はロシア革命の年であるため、「生稲晃子がロシア革命」という語呂合わせが成立する。『夕やけニャンニャン』内でも紹介され、最近ではドランクドラゴンのコントの中でも使われた。
  • 写研が開発したフォントの一つ「イクール」は、生稲晃子の手書き文字がモチーフとなっている。
  • TIMのレッド吉田が『内村プロデュース』内で「友達の友達が生稲晃子!」というフレーズを独特のイントネーションで発する。(NO PLANのアルバム内の一曲『内P"COCO JAPAN"Remix』にレッドの「生稲晃子!」が収録されている)
  • 『麦わらでダンス』の替え歌が1988年にプロ野球の広島東洋カープに在籍していたランスの応援ソングに使われ、現在でも他の選手の応援に使われる事もある。またJリーグのFC東京の応援ソングにも長年『麦わらでダンス』の替え歌が使われており、現在でも試合の度に数千の人たちが生稲の曲のリズムを口にしている等、親しまれる曲となっている。
  • 近年ではテレビ朝日系で2006年12月24日に放送された『M-1グランプリ』でゲストとして観客席に座って、番組を観覧している姿が見られた。島田紳助とは以前クイズ番組で共演しており、この頃から紳助はよく生稲に「このおニャン子クラブの生き残りが!」と言ってからかっていた(もちろん親しさがあった上での発言である)。紳助は大の工藤静香ファンで、うしろ髪ひかれ隊の頃『オレたちひょうきん族』に出演した際工藤を贔屓していた(生稲を押しのけて工藤に近づいた、発泡スチロールに埋もれた中から工藤だけを助けた、など)と言われると「そんなん当たり前や」と答えていた。
  • 上記のつながりからか、島崎和歌子と仲がいい。また小林千絵は生稲が「親友」だという。
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